昭和43年9月16日 朝の御理解


 ただ今から、第58節人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねば、”よし”乞食じゃというてももらいに行かねば、乞食ではなく、神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。ここのところで一番大事なところは、神がよくみておるというところ。神様がいつも見てござる。神様がご承知だというところを信じられたら、この御理解はありがたい御理解ということになる。神様が見てござる。神様がご承知だということが分かっておる様で分かっておらないから、腹が立つ。さみしい、苦しい、苦しいことがあるけれども、苦しいてもありがたい。苦しゅうても、楽しい。その苦しいことが、大きければ、大きいほど、*しい。神様が、見てござる。はあ、神様はこういう大きな修業をさしてくださるんだ。どういう大きな力を与えてくださるのだろうか。どういうお徳をくださるつもりなのかと行ったように苦しいけれども、そのそこにありがたいものが湧いてくる。ですから、ここんところは、言うならば、どうでもいいような盗人だと言われても乞食じゃと言われても他の問題はたくさんある。言われるとか言われないとか言う問題じゃない。どんな難儀な問題に直面しておいても同じである。ですから、神がよく見ておるというところをですね。私どもが、神様が見てござる、ということを信じ切れれる。信心をね、頂くと言うことがです。しっかり信心の帯をすることなんです。ですから、しっかりした信心の帯が出来ておらんから、又反対に神様が見てござると言うことがいつまでたってもわからんということになるのです。しかもその神様がどういうそんなら神様がどういう御性質の神様かと言うことがもう分かれば、分かるほど難儀も悲しいことになる。腹の立つこともそれが平気で平然としておれれる。しっかり信心の帯を締めよ。しっかりした信心の帯をしめないといかん。しっかり、信心の帯をすることは、どういうことだろうか。毎日、お参りしよりますというのでもない。いつも熱心に拝みよるというわけでもない。もちろん、信心の帯をするには、毎日お参りもしなければ、おられないし、御祈念にもいよいよ力が入って来るんですよね。そうじゃない。「生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことはなし」とお教えがありますよね。私どもが信心させて頂いておる。神様は生きてござる。ですから、生きたものを対象としての信心の稽古でなければ、ならない。例えば、猫がネズミを取るときの勢い。ネズミと言うものはずいぶん早いものですからね。あのキョロキョロしている。あれは、取って押さえるのですから、大変な技術が必要なんですよね。ネズミを発見してね。あれに飛びかかっていく。あの勢い。しかも、あのキョロキョロするのを押さえるのですから、それこそ大変な技術がいるんですよね。そこでやっぱり、猫はいつも稽古をしておる。猫がネズミを取るような稽古をするようなですね。あの稽古がなされてきた。ネズミを形の木の様な物で作ったちゃ、やっぱり、ねずみを取った乳はせんです。猫は、まさか、何かを転がしてやりますと転がした方に向かってパ-と飛びついて行くですよ。じゃれるのもそうです。自分でも動かしておる。その動いているものに生きていない。動きのないものに私は対象ではだめだ。稽古は、動いているものに向かって飛びついて行く。動きのないものに生きていない。動きのないものに、私は対象では、だめだ。稽古は、動いているものに飛びついて行くようなあの鋭いまでのけいこというか、信心の稽古もそうです。自分のやはり、心が生き生きとして動いていく。ありがたいほうへありがたいほうへと使うことが出来る。そこにおかげの方も動いてくる。そこで一番つまらないのは、どういうことかというとですね。動きのないもの、それは、どういうことでいおうかな。金に頼る、人に頼る。物に頼る。こういうのが一番つまらん。いうなら、金を追って回る。人間を追ってまわる。これではつまらん。こっちのほうが動いてまわる。人間って不思議なもんですわ。少しお金が貯まるともう悠長になる。生き生きとしたものを欠いてくる。手形なんかでも、もうちゃんと銀行に行けば、いつでも日金がおとせれる様になるのは、結構です。もちろん、そういうおかげも頂かねば、なりません。それまでには、十分に稽古がでけてからでなからなければだめ。そこんところの稽古がでけん先にもう充分にお金があったら、もう絶対におかげは頂かれん。そこで神様はですね。そこんところを根かぎり生きた神を頂かせようとなさる働きがあるのです。先日も秋永先生か言うておられるようにもう実にいつも度々の事なんですか。手形のたんびにあれはね、落ちないと言うのは倒産ということなんですからね。ですから、今度倒産するかわからん。今度倒産するかわからんというようなひやひやした中にあるわけなんです。それが、見事にですね。時間ぎりぎりに又はすれすれにこう落ちていく。そこで何が分かるかというとですね。私は生き生きとしたひやひやとしたその生き方と言うそこにね。信心の稽古がありますよね。そのとき奥さんがこんなことを言われる。今度の場合でもそうだった。もう本当におかげ頂くやら、頂かんやら、わからん。私は思いよった。神様に対しても相すまん。神様の顔に土をぬる。私はもうおかげを頂くと思っとった。それが、本気でそう思いよったら、そういう難儀は難儀でないです。本当は実を言うたら、本当にそれが出来るために度々難儀があるのです。心の底にはですね。いうならば、よし倒産してもままよ。倒産なら、倒産することがおかげになるという確信がなからなければです。けれども、人間ですから、倒産と言うことはやはり、秋永先生の場合は、ひやひやしておるだけであってよし倒産したらと言うてもです。それから、先は神様のおかげ頂かんでよいというのじゃあない。いや、よりおかげを受けられることを確信しておるということなんだ。それは、神様は絶対おかげくださると思うとった。本当にそう思えたらですね。本当にそれが出来たらですね。だいたい、そんなにお金に不自由することは絶対にない。それは、うけんとして参りますとね、深さは限りない。秋永先生がひやひやしていると言うような意味のことをですね。もうなんというでしょうね。できにゃあならんから、心の底にはでけておってそしてそれは頂くまでは安心とはいかんかと言うてそれを誰にたより、彼に頼ると言うようなものではなくてですね。たとえて言うならですね。金にたよらんとか、お金を作らんと言うのではないですからね。これは、私はあるいは鯉取りの名人の人の話を何かで読んだんですけれどもね。普通の素人は鯉を追い回るわけです。ところがね、名人になるとその鯉がおると言うところにじ-っと潜って行ってじ-っとしておる。それでその体の体温をですね。親って鯉がじ-っとよってくるそうですよ。それをただ、じ-っとぎゅ-っと抱きしめるだけなんです。あの鯉の体温の力ですからね。それは、ばかばかしい押さえようと言うような頂き方ではないんです。たとえば、奥さんの生き方はがむしゃらでも、おかげいただくことは間違いないから、それは、押さえようと言うような感じですね。秋永先生の方はそこは、確信しておるから、そこに魚がおるかおらないかが問題であってよってくることは間違いない。これは、いつも場合でもそうなんです。それをだから、抱きしめるだけなんです。おかげに頼ってはならんということはね。お金がここへ来たら、なんぼそれは肘をついてもそれは、使うてもいいとですよ。人間もですよ。どうぞとここへ来たら、ここに総代さんがたくさんおるか、あるいは、総代さん、親よりにしとらんと言うても私の手になり、足になってくださるとしてここへよってくださるから、高橋さんお願いしますよ。高橋さんお願いしますよとこういうだけのことでしょう。ここへ参ってこんとは、電話かけよってお願いしますよといわんだけのことよ。これは、金でも物でも同じ事。そこんところがね。いわば、本当にでける様になる。おおてまわる。おおてつかまえる時もあるけれども、会うてまわる場合はまだ、あてになるやら、ならぬやら、分からない。けれども、確かにこれによってよってくる。集まってくる。そこんところを確信してそれをいっぺん抱いて上がってくるのが、鯉取りの名人だと言うことを聞いたことがありますがね。同じことです。信心もここがですね。神がよく見ておるということをですね。神がよく見ておると神様がご承知、今私が金に行きづまって何月何日までには、これだけのお金が必要であることを神様はご承知なんだと、それが信心です。それが、信じられると言うことが、大変なんだね。実を言うたら、それは、私は私なりに秋永先生は秋永先生なりにです。実意丁寧な信心が一生懸命にしかもそれが、出来ておるときでなからなければ、それが感じられない。こうしなければならないということが、分かっておるけれども、まあ、よかよかというてそのよかよかと言うときの信心の時にはですね。そういう確信が生まれませんから、ばかばかしゅうなるんです。ここに集まって来るのをじ-っとこれによせ切らん。一生懸命お願いしながら、さあ、そのときになってバタバタするだけ。けれども、それはおかげを頂いてもおかげを頂く具合が違う。生きたものを対象とする。昨日高橋さんが今度お店が開業になりますので、いろいろ道具が必要なんです。それを東京に注文してあったから、注文しておったが、その後何とも言ってこん。だから、こちらでも頼もうと言う気持ちになってお届けされたところがやはり、もういっぺん東京に言うて見れと言うことがあった。おととい、それではいと言うことになって東京のほうへ行くことにしたわけである。ところがあちらのお父さんが、御用で東京においでにならんことになった。仕事の都合で参りますから、お店の方へも行ってもらって注文してもらおうとこういう。昨日、平和台の野球がある。ああいうように雨が降っておりましたから。お弁当を作る具合がわからん。どうさしてもらはならんだろうか。自分でお願いしよったけれども、どうも頂かれん。そこでご主人が伺われたんです。そこで私は申しました。相手も出方を待ちなさい。注文するほうの出方を待ちなさい。今日はね、向こうの注文に応じてこちらが動きなさい。そういうこっちやったら、お伺いせんでよかですよね。ただ、今まではそういうことはなかった。昨日は向こうから、動いてくるもので「これだ」ときめなさい。いわゆる動いておるものに向かって抵抗しようと言うわけなんです。向こうから、例えば、500なら500、1000なら1000というそこんところを願うて行きなさい。だから、向こうからいってくること間違いないと確信してその不安で来る人の心の中に神様の働きを頂いて500というたら、雨が降っても500作りなさいというわけなんです。これは、私は動いておるものを対象にしての信心の稽古をしてもらいたいから、そういうふうに申しました。その東京に注文するのもそうなんです。動いてこんでしょうが、お父さんが東京に行かれる。そげんいつまで、なんとも、言うてこんなら、何とか頼みなさいというたら、それは、もうそれまでけれども、こちらが言うてやっても返事もこんと実際こっちが動いて出て今度お父さんが行かれることになった。そういうようなことがですね。これは、適切な例ではないです。けれども、そういう動いたものを対象としたところの稽古、そこに神様の間違いなさというものを感じられる。いわゆる、神様が見てござる開いてござるなあと言うことが分かって来るのです。そういう信心が繰り返される。さきほど私が申しました。秋永さんの奥さんがおかげ頂くつもりであった。神様がそんな顔をつがされるはずがない。これはね。私どもでもそれをそういうふうに思い込んでおかげを頂いてきた。過去においてですよ。そこをいっぺんやっぱりとおることが大変ありがたいことですよ。けれども、よくよく考えよったらですね。このことをよくよく考えよったら、とてもとても恐れ多いと言うことになるんですよ。この考え方は、信心が本当に出けておらんとにこういう思い方が大変ご無礼であったことが分かってくるんですよ。けれども、信心の稽古をしておるときにはこれが、思えるようになってくることは事実ですよ。けれども、それがもう一歩進んだら、秋永先生の場合なんかはそこ辺が段々分かって来よると思うんですよ。これだけ毎日一生懸命信心しよるけれども、これで、済んだとは思ってないですよ。だから、ひやひやしておる。それでも、どうなってもそこから、おかげの受けられる事だけは確信しておる。形はどう変わってくるかわからんけれど、そこによってくるところのじーっと抱きしめていく稽古がそこに出来て来よる。奥さんの場合は動いておるものに向かっておるけれども、てんで、それこそ生きた鯉をつかまえてまわっておるような感じなんです。生きたものを対象としておってもですね。それは、だんだんこちらが分かってくれば、くるほどにですね。本当に思い上がりもはなはだしい自分は信心も出来ておらんのに、神様の足を本当にこうじ切りもしておらんのに、自分の顔を立ててくださる何というて神様をそういうふうに頂けなくなってくるんです。だんだん家庭でもそうです。けれども、そこから、自分自身が分かり自分自身がいわば、本気で何と言うかね、謙虚なというか、いわゆる、実位丁寧を限りをつくさせて貰える信心をだんだんさせて頂くようになってくるとです。実位丁寧が足りないことに気がついてくる。そこで神様が自分の顔をたててくださるというような考え方でなくてもうちっと先に進んだ信心とあかぬけたおかげ、いわゆるじっと集まってくるおかげを抱きしめていけれる様なおかげを頂けるようになってくるのです。それには、いよいよ神が見ておるという信心が身についてこなければなりません。神様が身どおし、それは、おかげがあらわれてくる程度だけではなくて、自分の生き方、あり方、いや、心の中にまで神様が身どおし、開きどおしだと言うことが段々わかってくる。そこで私がもういよいよ改まっていかねばおられない。出来ないところは謙虚に詫びて詫びて詫び抜かねばおれない。そこに冷や冷やするようなものがある。けれども、そこに詫が叶う。お詫びが叶う。その言うなら、謙虚な心持ちに神様がおかげをくださると言うようなおかげが頂けてくるというところにです。私はしっかり信心の労をしめよというものを感じます。これでよいだろうか、これでよいだろうか、いわゆる締め上げ、締め上げ、自分と言うものを締め上げていく信心、いよいよ謙虚になる。いよいよ改まりに改まっていく。私はこの58番の一番大事なところは神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ、というところが一番肝心だと思う。そこには例えば、なら馬鹿と言われてもです。泥棒と言われてもです。じーっと辛抱がでけ、心の底にしれっと笑うものがある。これが秋永先生の生き方なんです。すると、奥さんの方の生き方になるとどこが、私が馬鹿がいつおれが泥棒したかとそればいうていうてわからせなければ、気がすまんと言う生き方。これは、しかし過程ですよ。秋永先生の信心もこれだけじゃあないですよ。ここが垢抜けてくりゃあ、いわゆる手形がぎりぎりにおかげは頂くと言う事はなくなってくると私は思う。なら奥さんの信心でもそうです。これが、いつまでも続くはずがない。続いちゃあ、ならない。神様が見てござる。そして、まちっと言うたら、泥棒と言われ、乞食じゃと言われ、よーくじぶんお手元を見ると、なるほど、人間的な泥棒はいちょんしよらん。人間的乞食はいちょしよらんけれども、よくよく自分と言うものを顕微鏡にかけて見る気持ちになると本当に天下の大泥棒であり、天下の乞食と言うようなものが心の中に発見できてくる。いわゆる、親鸞上人様が自分は日本一の大悪人だと言われた様なものが出来てくる。そこに信心のいよいよ奥と言うか深さと言うものがね、感じられてくるようになる。そういうところから、いよいよ信心の帯というものがしっかり締め上げてくるのじゃあないでしょうかね。だから、そこへ行く過程においてだから、今高橋さんの例を取りましたように生きたものを対象にする。生きた神を信心しておれば、天も地も昔から、死んだことなしとおっしゃる。天地が相手なんだ。時々刻々と変わっておるところの天地の動くというものを一番きわめておくのだ。そこに信心の尽きぬ興味というかね。ありがたさというか、あるんですよ。日々が楽しゅうなってくるんですよ。こちらも言うならば、神様の動きをキャッチし得る心と言うものが、だんだんと洗練されて来るところにそこにも神の姿を見てここにも神の声を聞くことが出来るようになるのですよ。いうならば、強い人に来てくださる。その人の言葉の中に神様の声を高橋さんが聞かれたら、それは、稽古が出来たと同じこと。じーっとしておってもよってくるというものをです。たとえば、思いがけないお父さん東京行きがあるというようなことなんかは、そこの所の体験を感じられれば、そういう稽古が出来ておることになるのですよ。ですから、こちらの心次第でお道の信心の稽古と言うものは生きた神の信心をさせてもらっておるから、生きた信心の稽古。こちらが生きた心をもって、それは、丁度猫がネズミを天敵のような、いやそれは、いつもかつもではない。けれども、丁度鞠を転がしてですね。たまとりと言いますが、でもあれは、ねずみをとるけいこなんです。それは、決して死んでいるものやら、動かないものには飛びついていかない。動きよるものしか飛びついていかない。そういう私は信心の態度とでも申しましょうかね。相手が生きておる。たとえば、人間関係もそうですよ。相手がもう本当に愛想もくそもないという。例えば、人でも行きておるのですから、こちらが生きた心をもって祈り、生きた心をもって接して行く時にです。そういう愛想もくそもないような人の向こうにおかげがある。その人が変わってくるというおかげもなってくるわけなんです。楽しみなんです。こちらの心次第で例えば、子供が変わっていくとか自分の心次第で親が変わっていくとか、そこんところをですね。もう非常に楽しゅう信心の稽古をさせて頂かないかんと思うですよね。なるほどこっちが変われば、これは変わるとそういうことなんです。生きたものを対象としての信心の稽古と言うものはね。そこにいわば、尽きぬ喜びがあるのです。どうぞ。しっかり信心の帯をしろとおっしゃること、神が見ておると言うこと。神様がご承知の世界に生き抜いておる。だから、信心の帯を締め上げ締め上げ行かなければならないというようなことを申しましたですね。どうぞ。